物体は、「質量」「エネルギー」「情報」から成り立っている。工業社会では、質量、エネルギーがまさに産業を牽引していた。だが、情報社会にいると、文字どおり情報が産業のシーズ(種)となり、それに不可欠なネットワークとプラットフォームがベースとなっている。物体を表象する記号・データが、現代においては多大大な価値を持つようになったのである。

質量とエネルギーには実体があるものの、情報には実体が乏しく、それだけでは雲をつかむような、とらえどころのなさがある。インターネットによって提供されるソフトウエアサービスに対し、米GoogleのCEOのエリック・シュミット氏が「クラウド」という言葉を使ったのは、まさに的を射ている。

情報には、ときに実体が伴わなかったり、現物とのつながりがない場合には、価値がなくなったり、いったん使われればゴミ同然になってしまうことがある。逆に、情報さえ扮飾すれば、マスメディアによるプロモーションやCMのように、ほんのわずかなものに実態以上の価値に見せることもできる。

このことは、骨董品について考えれば分かりやすい。北大路魯山人の皿、尾形乾山の茶碗、古伊万里、千利休の茶杓(ちゃしゃく)などの価値は、その9割は情報である。つまり、「鑑定書」などで保証される由緒・由縁である。それが明らかでなければ、目利き以外には高い価値をつけないだろう。

たとえば、茶入や薄茶器の中の抹茶を掬って茶碗に移す匙である茶杓は、約700年前、中国へ渡航した僧が、長江河口の南にある天目山の寺院で修行し、帰国の際に持参したものの中に天目茶碗と抹茶とともにあったとされる。中国の茶杓は、象牙で作られ、金箔が貼られた象牙の筒に入っていた。見るからに貴重である。というのも、当時、抹茶は上流階級の人だけが嗜むことができる高価なもので、もっぱら薬として重用されていた。日本では象牙が採取できなかったため、「わび茶」を完成させた千利休が竹を削って茶杓を作り、初代長次郎に茶碗を作らせた。これが、赤樂茶碗、黒樂茶碗となり、樂焼につながった。

単に抹茶をすくう匙で、茶道の道具である竹製の茶杓であれば、デパートなどで1500~2000円出せば買えるだろう。だが、本物の千利休の茶杓となれば、たかが竹製の小匙であっても、2000万円しても不思議ではない。実際、オークションではそれだけの値がつけられたし、資金調達で格安にさばいたとしても500万円はする品物である。

茶杓には、それだけでちゃんとした役割があるが、がらくたと区別がつかないような木の破片や石のかけらであっても、それが縄文時代や弥生時代の遺跡から出土したものだと分かれば、にわかに文化財となり、お宝と化してしまう。そこの歴史的価値を決めるのも、希少さと情報なのである。

このように骨董品・発掘埋蔵品に価値を与えているものは、その多くの成分が情報である。使い古された一枚の小皿でも、そのものにまつわる情報に価値があれば、その骨董品の価値はにわかに高まる。有名人が使った日常品がお宝になるのと同じであり、学歴や肩書きで人間の価値が計られることがあるのも、それと通じている。

もちろん、希少性のある情報があっても、その背後に現物・現実性がないと、その情報はまったく価値がなくなることがある。たとえ、利休の茶杓の鑑定書であっても、それだけでは、ほとんど用をなさないのと同じことである。

20世紀を代表するメディアであるテレビにおいても、テレビ受像器は番組を映すことによって価値を持ち、テレビ番組そのものは単なる映像と音声であっても、現実とつながっているニュースの即応性、バラエティーやドラマのタレントの出演、映画の俳優とストーリーなどで現実とのつながりを持っている。ストーリーを伴うことで、「情報」は「情念」をわきたたせ、感情を刺激して、各個人にとって違う価値を生み出す。

インターネット上のビジネスにおいても、情報の価値が認められないときは、「現実とのつながり」をつけた方が訴求力を高めることにもつながる。